2018年6月5日火曜日

働き方改革は、日本経済の息の根を止めるか?―ブラック企業合法化の末路―

ブラック企業が合法化される

5月31日の衆院本会議で、「働き方改革法案」が可決されました。安倍首相が本国会の目玉と位置づけるこの法案が通れば、労働基準法は骨抜きにされ、ブラック企業が合法化されることになります。

「ブラック企業合法化」というと驚かれるかもしれません。しかし、働き方改革法案という名の労働基準法改正案の原文を読んでもらえれば理解できます。

第四十一条の二  賃金、労働時間その他の当該事業場における労働条件に関する事項を調査審議し、事業主に対し当該事項について意見を述べることを目的とする委員会(使用者及び当該事業場の労働者を代表する者を構成員とするものに限る。)が設置された事業場において、当該委員会がその委員の五分の四以上の多数による議決により次に掲げる事項に関する決議をし、かつ、使用者が、厚生労働省令で定めるところにより当該決議を行政官庁に届け出た場合において、第二号に掲げる労働者の範囲に属する労働者(以下この項において「対象労働者」という。)であつて書面その他の厚生労働省令で定める方法によりその同意を得たものを当該事業場における第一号に掲げる業務に就かせたときは、この章で定める労働時間、休憩、休日及び深夜の割増賃金に関する規定は、対象労働者については適用しない

これは「高度プロフェッショナル制度」の条文です。この法案には、成果に応じた働き方などといった文言は一切ありません。一定の条件を満たす労働者を、労働基準法の保護から外すというのがその本質なのです。そう整理すると、「ブラック企業合法化法案」がもっとも的を射ていることがわかってもらえると思います。


この法案は当初、年収1075万円以上の人間にのみ適用されることになっています。しかし第一次安倍政権の頃から、財界の主張は年収400万円以上への適用拡大でした。そしてこの年収要件は省令によって―すなわち選挙によって選ばれた議員による国会審議を通すことなく―変更可能です。

財界の要求通り、高度プロフェッショナル制度の適用が拡大された将来の日本社会では、ブラック企業がいまよりもずっと蔓延することになるでしょう。

労働規制の弱体化に繋がる可能性が高い労働基準監督署の民間委託が今年8月から始まること。労働時間の短縮に繋がるかのようにデータを捏造し、その事実が発覚したのに働き方改革法案をなお押し通そうとする安倍政権の姿勢。それらを見る限り、政策としてブラック企業の合法化を狙っていることは疑いありません。100時間ぶっ続けで働かされるような会社でも違法性がなければ、訴える先がない。そんな「美しい時代」がひそかに幕を開けようとしているのです。

日本経済を殺すのは誰か

もちろん、労働者として権利どころか生命を脅かす危険なものであることは、これまでも十分に指摘されてきました。しかし、この制度によってどのようなマクロ経済的な効果があるのか、その議論はほとんどなされていません。

その背景には、労働生産性と経済成長が直結するという、日本人特有の固定観念があります。言い換えれば、働けば働くほど経済が発展すると、右から左まで信じ込んでしまっている。だから、「働き方改革」による生産性向上は必要であると、なんとなく思ってしまう。

逆にこのロジックに乗っかってしまったリベラル側の「知識人」は、これ以上の労働強化を拒否するために、「経済成長を諦めましょう」という主張をしてしまう。例えば藤田孝典は次のようにツイートしています。

これやると経済成長する、あれやると経済成長する、とかもううんざり。何やっても30年近く経済成長していないし、これから先も基本的には成長しないって。これ以上経済成長を求めれば、長時間労働でさらに人が死ぬよ。

しかし本当の因果関係は「日本人が働かされすぎだから、経済停滞してきた」。私が著書『人権の経済システムへ』で論証したように、過去二十年間の日本経済は、「過労デフレ」の時代だったのです。

年間30兆円近くサービス残業の被害総額、ブラック企業による不当なダンピング、非正規雇用の増加、官製ワーキングプアなどによって給与総額・労働分配率が抑えられ、結果、消費者にお金が回らない。そうすれば企業の売上も伸びようがなく、経済成長全体が抑えられる。お金を持っていない人にモノを売りつけることはできないのですから、考えてみればこれほど当たり前の話はありません。


そう整理すると、政府が今「働き方改革」の名の下でやろうとしていることが、どれほど日本経済にとって危険なことか、簡単に理解できます。安倍政権は、企業が法的に正当な賃金さえ払っていない現状を放置しながら、「商品が売れないデフレ経済状況は、労働者の働き方が非効率なせいに違いない」と考え、労働をいっそう強化し、不払い労働を合法化する法案を押し通そうとしているのです。労働者から消費に使うお金も時間も奪っておいて、それでこそ経済が成長すると政府は信じているのです。

働き方改革法案は、日本経済の滅びの道です。経済が死ねば、社会保障制度も教育制度も破綻します。こどもに満足な教育を与えることはおろか、育てることすらできない。日本国民の命と生活を犠牲にし、日本を滅ぼそうとしているのはいったい誰なのか。いま、私たちの生活と労働が苦しいのは誰の責任なのか。いまこそ現実に即して考えなおすべきときではないでしょうか。

2018年4月10日火曜日

森友問題が内閣総辞職に値する理由―人権を擁護しない首相は要らない―

森友は些末な問題か


森友学園事件について、「野党は些末な問題を追及している」としばしば批判されます。30%前半より下がらない政権支持率をみると、モリカケに辟易している人が相当いるのは事実でしょう。
しかし、喧噪の中で、最も大事なことが忘れられているような気が、私にはしてなりません。それは、子どもたちの人権です。

森友学園は、陰惨な児童虐待を行い、教育勅語を暗唱させる超国家主義教育を行う塚本幼稚園を運営していました。その学校法人の名誉校長に首相夫人が就任し、安倍首相が「しつけに共鳴」と国会で答弁した。土地取引に関与していなくても、本来それだけで内閣総辞職に値するはずです。


想像してみて下さい。仮に、ドイツのメルケル首相が極秘裏にネオナチ小学校を支援していたり、イヴァンカ・トランプがKKKの教育機関の名誉校長になっていたとしたら。数十万人の怒号が議事堂を囲み、一瞬で政権が吹っ飛んでいることは疑いないでしょう。それが国際標準の、正常な人権感覚というものです。

海外報道では、ultra-nationalistのMoritomo School をPM Abeが支援していたと必ず書かれますが(たとえばFinancial Times)、そこでは安倍政権と、政権を許している日本国民の人権感覚こそが疑問視されています。


さらに森友学園は、安倍首相周辺の「一群の人たち」にとって、彼らが目指す公教育の方向性を指し示している可能性も十分にあります。森友学園事件で問われているのは、日本の未来を担う子供たちに対してどのような教育を行うのかという、その国家の根幹にかかわる問題なのです。


幼児虐待と教育勅語の間

2017年2月から3月にかけて、森友学園の異常な教育がメディアで報道され、首相夫妻が支援していたという事実もまた明るみになりました。しかしながら、政権支持率は5%程度下落した程度で、50%代前半と高止まりしていました(はる 未来社会プロジェクト)。実際、教育勅語について、「私学がどのような教育をしようと自由だ」という声が、いわゆる右派だけではなく、リベラル派市民からも聞かれました。


しかし、塚本幼稚園の幼児虐待は、教育勅語と切っても切り離せない問題です。

整理しましょう。塚本幼稚園では、決まった時間にしかトイレに行かせない(週刊新潮2017年3月16日号)、お弁当の中身や鞄を一方的に捨てる、おもらししたうんちをパンツでくるんで鞄に入れて持ち帰らせる(日刊ゲンダイ 同年2月22日)、など数々の虐待報道がありました。

こうした報道がありながら、安倍首相が「しつけ等をしっかりしているところに共鳴した」(参院予算委員会 同年2月28日)と驚くべき答弁をしています。「しつけ」という言葉で、幼児虐待を正当化したとも取れる発言を、国会の場で行ったのです。

もちろん、安倍夫妻が虐待の実態について知らなかった可能性も十分にあります。しかし、結果として塚本幼稚園の広告塔として安倍夫妻が虐待に荷担してしまった、その道義的責任は免れられないのではないでしょうか。

その道義的責任を共産党の小池晃に問われ、安倍晋三は次のように答弁しています。

教育方針については今私は申し上げる立場にはないわけでありますから、認可をされているわけでありますから、言わば認可の責任は、これは言わば認可した大阪府があるということではないかと思いますし、教育内容について、私が私学の教育内容について云々する、 また意見を申し上げる立場にはないわけであります。(3月1日 参院予算委員会)

安倍総理の、人権に対する無感覚さと無責任さが如実にわかる答弁だと思います。
しかし、なぜ安倍首相や、その周辺の人たちは、塚本幼稚園に好意的だったのでしょうか。それは、教育勅語と無関係ではないはずです。


教育勅語は親孝行や夫婦仲良くなど、たくさん良いことが書いてあると擁護する人がいますが、そんな一般論なら教育勅語に教えてもらう必要はありません。

教育勅語は、「朕惟フニ」から始まり、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という文言にその本質が集約されています。つまり、「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省による正式な翻訳)と天皇が臣民に命じている、それが教育勅語の精神です。

そう整理すると、塚本幼稚園が行った教育の問題点がわかるはずです。年端もいかない幼稚園児に、「お国のために死になさい」と教えた。その幼児教育を、あろうことか、わが国の首相夫妻が支援した。

「お国のために死になさい」と国家が教え込むことは、人権侵害の最たるものです。子供の命は国家のために存在する―そう信じるからこそ、塚本幼稚園は躾のつもりで虐待を行い、安倍夫妻はそれを黙認したのではないでしょうか。幼児虐待と、教育勅語暗唱は明らかに地続きなのです。

公民教育から基本的人権が削除される

さらに、森友学園の人権侵害教育が、今後の日本の公教育のモデルになっているのではないかという懸念があります。

これは、大変残念ながら、杞憂ではなさそうです。NHK解説アーカイブスの「新高学習指導要領の問題点」を要約します。

  • 2022年度から高等学校と特別支援学校高等部の指導要領が施行される。
  • 「現代社会」が廃止される一方、「公共」が必修科目として新設される。
  • 「公共」の目標として、愛国心をもつことが明記されている。
  • 「公共」から、「基本的人権の保障」と「平和主義」が抹消されている。

基本的人権は、少なくとも民主主義国家では、国家と社会の基本です。公教育から基本的人権を削除し、国家への献身を教えこむ超国家主義ultra-nationalismを志向する限り、日本は民主主義国家とも先進国と見なされなくなるでしょう。それが、昨今の日本の外交的孤立の遠因だと思われます。

安倍周辺が目指す「人権」抹消

森友学園の支援、そして公共教育からの基本的人権の抹消。それらは、安倍首相が民主主義とは別の形の国を目指しているということを示唆していないでしょうか。

安倍首相のブレーンと呼ばれる人間に、八木秀次・高崎大学助教授がいます。その著書『反「人権」宣言』は、次のような内容です。https://www.amazon.co.jp/dp/4480058982/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_Oo5YAbTD6J8YE

王は神を追放し、人はその王を、「人権」の名のもとに排除した。それは「人権」が、民族や宗教、国家すらも超えた、普遍的なものであると考えられたからである。その結果、「人権」に異を唱えるだけで差別主義とされかねない空気が広がり、私たちの日常生活は様々な混乱に見舞われている。

 人権に異を唱えるだけで差別主義とされかねない、とはさっぱり理解が困難ですが、少なくとも彼にとって「差別」は悪だが、人権の否定は悪ではないことだけは汲み取れます。差別がダメなのは、人権侵害だからであるという常識は、この人間には通用しなさそうです。

数ある傍証の中から、もう一つだけ挙げておきます。2012年5月10日、安倍晋三が会長をつとめる創生「日本」の会合で、「国民主権、基本的人権、平和主義の三つをなくさなければ、本当の自立自主憲法にならない」との発言が大喝采を浴びました。


発言者は長勢甚遠、第一次安倍政権時の法務大臣です。出席者の中に安倍晋三の姿は確認されていますが、この発言に対して拍手をしたのかどうかは定かではありません。

憲法に違背する安倍晋三に、総理大臣の資格はない

このように見ていくと、安倍首相とその周辺が、基本的人権をターゲットにしていることは明白です。国家の仕組みから基本的人権を抹消すること、それが安倍やその周辺の日本会議人脈の狙いでしょう。
森友学園事件では、「人間のための国家」なのか、「国家のための人間」なのかが問われるべきだったのです。

そして、この「国家のための人間」という超国家主義の暴走こそ、安倍晋三が「みっともない憲法」と呼んだ日本国憲法が抑止しようとした当のものです。だからこそ1948年、衆参両院は、教育勅語の排除と無効を決議したのです。

いまこそ日本国憲法を読み直すべき時です。

(日本国民は)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(日本国憲法前文)

本来、政府は国民による、国民のための存在である。政府が暴走し惨禍を巻き起こし、我が国と他国民の人権を侵害するにいたった。その事実を反省し、基本的人権と平和を守るために、国民主権を宣言する。―これが日本国憲法の論理構造です。

日本国憲法の三大原則、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の中で、最も根幹に位置するのが基本的人権であり、それは「侵すことのできない永久の権利」(第11条)です。

ですが、安倍首相とそれに連なる人脈は、侵してはならない私たち日本国民の権利を剥奪しようとしています。安倍首相は、幼児虐待を行い、国家のために死ぬべきと教える幼稚園を、国会という国権の最高機関において正当化し擁護した。これは明らかに日本国憲法に違反しています。

日本国憲法第99条は、国務大臣の憲法尊重擁護義務を定めています。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

この条文の裏を返せば(対偶を取れば)、憲法を尊重し擁護する義務を負わない人間は、国務大臣ではないということになります。基本的人権という侵すべからざる至上の権利を擁護しようとしない安倍晋三は、もはや国務大臣である資格がない。日本国憲法を厳密に解釈するならば、安倍晋三がどれほどの権力者であろうと、彼がいま行使している権力は、法的には正統化することのできない私権にすぎないのです。